文章を書くのが難しいのは何故か
文章を書くのが苦手だ。
やろうとしても手が止まり、書き始められたとしても時間が掛かり結局完成しないことが多い。
なぜこうなるのか、これまでうまく言葉にできなかったが、今日はそれを整理してどういった難しさがあるのか見ていこうと思う。
表現する対象に対応した「言葉の写像」を選ぶ難しさ
よく「思ったことをそのまま書けばいい」「素直に書けば伝わる」と言う人がいる。
私はこの意見は現実を無視した、かなり無茶な助言だと感じている。
そもそも人は、思ったことをそのまま口にしたり、即座に行動へ移したりして生きてなどはいない。
私たちの言動は常に環境への適応であり、生存戦略や社会的文脈の中で調整された結果として現れる。そこには、独立した自由意志による選択というよりも、周囲からの刺激に反応しながら形成されていく、より動物的で状況依存的な過程が存在している。
人の言動が環境への適応として形成されるものであるなら、発話という行為もまた例外ではない。 つまり、内的な状態がそのまま外部に現れることはなく、それは常に環境に適合した形式への変換を経て表出する。
この表出は記号的な形式として現れる。もしこれが記号でなければ意味の圧縮が出来なくなり前提の共有などが著しく困難になってしまう。
話したり書くという行動は他者と共有可能な形式へと変換する行為であり、そのために必要な変換を担っているのが言語という記号体系である。
記号表現としての言語
そもそも言語が記号であるというのはどういうことなのだろうか?
記号であるとは、記号というメディアを通して提示される・出来る「ソレ」は表現したい対象そのものではなく、その対象の一部の特徴を抽出し、共有可能な形式に落とし込まれたものであるということを意味している。
こういった記号的表現の難しさは、記号はシミュレーションにはなりえるがその対象そのものにはなりえないことにある。記号的表現とは表現したい対象そのものではなく、対象が持つ無数の要素の中から、そのメディアで扱える特徴だけを選び取り、その他を切り捨てることで初めて成立する。原理的に抜け落ちた情報が存在するので、記号的表現から表現したい対象への逆変換は起こりえない。1
たとえば、いま私の手元にパンがある。このパンは触れることができ、匂いもあり、温度もあり、個体としてここに実在している。何なら今食べながら書いている。しかし、この文章の中で使われる「パン」という語は、文章の中で使われた途端にそれらの具体性をすべて失い、「パン」という抽象概念を指す記号へと変貌する。読者が思い浮かべるパンは、私の手元にあるこのパンとは一致しない。
文章を書くとは、このような抽象化と取捨選択を連続して行う作業である。どの要素を残し、どれを削るか。その選択を誤ると、伝えたい核心がぼやけたり、逆に情報が足りなくなったりする。私はこの「対象から言葉への写像」を適切に選ぶ作業が苦手なのだろう。
まっすぐに話を並べて「流れ」を作る難しさ
もう一つの大きな理由は、思考がまっすぐではないという点にある。
人の頭の中では、複数の考えや感情、前提条件や補足説明が同時に存在している。それらは網状に結びついており、どこからでも別の話題へ飛べる構造になっている。
記憶の反芻は人の逃れられない性質であり、夢の中では過去や未来、現在の違いも消え失せる。
しかし文章は本質的に1次元的であり、必ず文章の構成要素それぞれの依存関係を解消した最初から最後への順序を形作る。
つまり、同時に存在している思考を、強制的に直列な1本の道筋へと並べ替えなければならない。
どれを先に説明し、どれを後に回すか。どこで例を入れ、どこで結論を述べるか。この構成の決定そのものが非常に難しく、重要なものとなる。2
さらに厄介なのは、後から書こうと思っていた重要な前提を、途中で書き忘れてしまうことだ。
その結果、読み返すと「なぜここでこの話になるのか分からない」文章になってしまう。書き直そうとすると、今度は別の部分との整合性が崩れ、修正が連鎖的に発生する。こうなると完成までたどり着けなくなる。
文章を書くとは、思考の翻訳作業である
結局のところ、文章を書くことが難しいのは、考えをそのまま吐き出せば済む作業ではないからだ。
対象から言葉への抽象化、同時並行の思考の直列化、読者へと伝わる順序への再構成。これらすべてを同時にこなす必要がある。
私は文章を書くたびに、この「翻訳作業」を一人で何度もやり直している感覚になる。時間がかかるのも、途中で疲れてしまうのも、ある意味では当然なのかもしれない。
そう考えると、「文章を書くのが苦手」というより、「文章を書くという作業が、想像以上に高度で重い」というだけなのではないか。少なくとも、自分にとってはそうなのだと思う。