「考え方を変える」では届かない場所

違和感から始める

「それは認知の歪みだよ」と言われたことがある人は少なくないだろう。あるいは、自分で自分にそう言い聞かせたことがあるかもしれない。白黒思考、過度の一般化、べき思考——こうしたラベルは、セルフヘルプ本やSNSを通じて広く浸透し、日常語の一部になっている。

このフレーミングには一定の有用性がある。自分の思考パターンを外側から観察する視点を持つことは、感情に飲み込まれそうなとき助けになることがある。

しかし、「それは認知の歪みだ」と言われたとき、あるいは自分にそう言い聞かせたとき、どこかに引っかかるものを感じたことはないだろうか。

「確かにそうかもしれないけど、何か違う」という感覚。

言われた通りに考え方を変えてみても、腑に落ちないまま残る何か。この記事は、その違和感の正体について考えてみたい。

「歪み」とは何に対しての歪みか

認知の歪みという言葉は、「正しい認知」が存在することを前提にしている。あなたの認知はそこからずれている、だから修正しなさい、と。

しかし、人間の認知は常に偏っている。これは特定の人の問題ではなく、認知の構造そのものがそうなっている。

誰もが自分の経験、立場、価値観、身体的な状態を通して世界を見ている。その見え方には必ず偏りがある。同じ職場を見ても、管理する側と管理される側では見えるものが違う。同じ家庭を見ても、家事を担っている人とそうでない人では感じることが違う。これは認知のエラーではなく、認知が特定の位置から行われていることの不可避な帰結だ。

そしてむしろ、特定の位置から見ているからこそ見えるものがある。管理される側にいるからこそ見える組織の矛盾がある。家事を担っているからこそ見える負担の構造がある。偏りは認知を制限すると同時に、認知を可能にしている。どこからでもない場所から見ることは、すべてを見ることではなく、何も見ないことに近い。

「認知の歪み」フレーミングの問題は、この不可避な偏りを「修正すべきエラー」として扱うことにある。偏りのない「正しい認知」が存在し、それに近づくことが目標だとされる。

しかし、偏りのない認知はどこにも存在しない。治療者にも、セルフヘルプ本の著者にも、この記事の筆者にも、それぞれの偏りがある。ある偏りを「歪み」と呼び、別の偏りを「正しい認知」と呼ぶとき、そこには暗黙の判定者がいる。

偏りとの向き合い方は一つではない

偏りが不可避であるなら、問題は「偏りをなくすこと」ではない。問いは変わる。自分の偏りを引き受けた上で、何を大事にし、何を手放すか。

たとえば、ある人が職場での評価に対して過敏に反応する傾向を持っているとする。「認知の歪み」フレーミングでは、これは修正対象になる。過剰に気にしている、もっとバランスの取れた見方をすべきだ、と。

しかし別の見方もある。評価に対する過敏さは、その人がこれまでの経験の中で、評価されないことの痛みを深く知っているからこそ生じている。それは「歪み」であると同時に、その人が仕事の質を大切にしていることの現れでもある。この偏りを完全に消し去ることは、その人がその人である所以の一部を消し去ることにもなりうる。

ここで生まれる問いは「この認知は正しいか間違っているか」ではなく、「この偏りを自分はどう引き受けるか」だ。過敏さを手放して楽になることを選ぶのか。過敏さを自分の一部として引き受けた上で、それが自分を苦しめすぎない環境を探すのか。過敏さを保ったまま、その影響を受けすぎない工夫を自分で見つけるのか。

この選択は単なる好みの問題ではない。何を大事にし何を手放すかを選ぶことは、自分がどういう存在であるかを選ぶことと切り離せない。そしてこの選択を避けることはできない——手放すことも、引き受けることも、決めかねていることも、すべて選択だ。

いずれの選択も、外部から「これが正解だ」と指定できるものではない。何を大事にし何を手放すかは、本人にしか決められない。そしてその決定に自分が納得できるかどうかが、判断の質を決める。

外部から与えられた「正しい認知」に従って納得のないまま行動するのと、自分の偏りを自覚した上で「これは自分が選んだ」と言える状態で行動するのとでは、同じ行動でも意味がまったく異なる。これが、ここで言う自己決定権だ。「正しい判断をする権利」ではなく、「自分の判断に自分で納得するプロセスを持つ権利」のことだ。

自己決定の回路を断つもの

「認知の歪み」フレーミングが最も問題になるのは、この自己決定の回路を断ってしまう場合だ。

「あなたの認知は歪んでいる、正しくはこうだ」と繰り返し言われると、自分の判断を出発点にして行動するという回路が弱まっていく。違和感を覚えても「これは認知の歪みかもしれない」と自分で打ち消す。不満を感じても「自分の考え方が偏っているのだろう」と飲み込む。やがて、自分の判断そのものへの信頼が失われる。

この信頼が失われたとき、相手にニーズを伝えること、環境を選び直すこと、助けを求めること——自分の判断を起点にしたあらゆる行動が始まらなくなる。「自分はこう感じている」という出発点なしには、何も動かない。

回路が断たれた後に見える風景

自己決定の回路が弱まると、残る道は内面の調整だけになる。「自分の見え方は歪んでいるかもしれない」と常に疑っている人にとって、その見え方に基づいて環境に働きかけることは合理的な選択には見えないからだ。

しかし、偏りとの向き合い方が内面の修正だけではないように、困難への対処も内面の調整だけではない。自分の判断を起点にした行動には、たとえばこういうものがある。相手とのやり取りの中で関係を調整すること。環境そのものを選び直すこと。第三者を巻き込むこと。問題を誰かと共有すること。あるいは、今は動かないと自分で決めること。

これらはいずれも、自分の判断への信頼を前提とする行為だ。その信頼が弱まっているとき、これらは選択肢として浮かんでこない。

この傾きは、社会の側からも強化される。一般に流通する心理的アドバイスには、内面で完結するアプローチが偏って多い。商品化しやすく、一般化しやすいからだ。

臨床の現場では、治療者がその人の状況を見ながら「認知の修正が適切か、環境への介入が先か」を判断するというフィードバックループが存在する。しかし本やSNSやアプリを通じて流通する段階で、この個別の判断がまるごと脱落する。残るのは、誰にでも言える一般的なアドバイスだけだ。

そして、個人が内面を調整して適応してくれれば、環境の側は変わる必要がない。個人の内部で起きている回路の弱まりと、社会の側で起きているアプローチの偏りが、互いを強化し合っている。

もう一つの不可避——他者の判断

ここまでは、自己決定の回路が弱まっている状態について述べた。しかし、仮にその回路が十分に機能していたとしても、なお残る困難がある。自分の判断から始めたとしても、相手もまた自分の判断を持っているということだ。

自分が偏りを引き受けた上で環境と関わろうとするとき、相手もまた自分の偏りの中で判断している。自分がニーズを伝えたとき、相手がそれを建設的に受け止めるか、脅威として処理するかは、相手の判断であって、こちらが制御できるものではない。

ゲーム理論にスタグハントというモデルがある。これは数学的なモデルであって現実そのものではないが、ここで起きていることの構造を照らすのに役立つ。二人の狩人が協力すれば鹿を獲れるが、一方だけが鹿を狙い、もう一方が兎を追えば、鹿を狙った側は何も得られない。兎なら一人でも確実に捕れる。互いに協力したほうが良い結果になるとわかっていても、相手が協力してくれる保証がない以上、安全な選択に留まるのが合理的になる。

ここで問われているのは、技術や勇気の問題ではない。偏りが認知の不可避な条件であるように、他者の判断が読めないという不確実性は、人が他者と関わることの不可避な条件だ。この不確実性を前にして動かないことを選ぶのも、動くことを選ぶのも、判断だ。いずれも正しいかどうかは事前にはわからない。わからないまま、自分の判断として引き受けるしかない。

この記事自体について

ここで正直に述べておきたいことがある。

この記事は偏りの不可避性を論じているが、この記事自体も一つの偏りの中で書かれている。筆者には筆者の経験と立場があり、そこから見える風景に基づいてこの記事は構成されている。

実際、この記事の草稿は、交渉という一つの行動に議論が収束し、「考え方を変えろ」を「交渉しろ」に差し替えただけの構造になりかけた。複雑な問題を言語化するとき、「AではなくBだ」という明快な対比に引き寄せられる圧力がある。この記事が批判している「単純なメッセージだけが流通しやすい」という構造は、記事を書くプロセスの中でも作用した。

この記事が提示する見方もまた、多くの見方の一つにすぎない。そのことを踏まえた上で、自分の偏りを引き受けて環境と関わるということが具体的にどのような経験になるかを、いくつかの場面から描いてみたい。

自分の判断から始めたとき

一つの場面を考える。仕事で納期が厳しく、このままでは品質を落とすか、自分が無理をするかの二択に見えている。内面を調整するアプローチなら、「完璧主義を手放そう」「できる範囲でいいと考えよう」となるかもしれない。それが自分にとって納得のいく選択なら、それでいい。

しかし、もし「品質を大事にしたい」という自分の偏りを手放したくないなら、別の方向がある。「この品質を維持するにはあと二日必要です。期日を優先するなら別の進め方もありますが、どうしましょう」と相手に伝える。これは自分の偏りを否定せず、その偏りを持ったまま環境との関わり方を変えようとする行為だ。

相手がどう応じるかはわからない。しかしここでは、その不確実性に踏み込む瞬間に焦点を当てたい。自分が何を大事にしているかを確認し、それを相手に開示するという瞬間。この瞬間が、自己決定の回路が動いている瞬間だ。

別の場面がある。家庭で家事の負担が重いと感じていて、「最近、夕食の準備がかなり大変になってきた。何か変えたいんだけど、どうするのがいいと思う?」と伝えた。しかし相手は不機嫌になり、「今さらそんなことを言うの?」と返してきた。

このとき、二つの方向がありうる。一つは「やはり言うべきではなかった」と自分の判断を撤回すること。もう一つは、相手の反応を情報として受け取ることだ。この関係において自分のニーズを共有することが、どの程度可能なのかについての情報として。

後者の場合、自分の判断——負担の偏りに対する感覚、それを変えたいという意志——は撤回されていない。結果は望んだものではなかったが、自分の判断は自分のものとして残っている。一回の反応が関係の全体を決定するわけではないし、同じ相手に別のタイミングで別の形で伝えることもできる。しかし、何度試みても状況が変わらない、あるいは悪化するなら、それはこの関係の構造について考え直す材料になる。距離を取る、第三者を入れる、環境そのものを変える——いずれも自分の判断を起点にした選択だ。

もう一つ、もっと小さな場面がある。友人との予定で、ずっと「どこでもいいよ」と言ってきた人が、「自分はここに行きたいけど、どう?」と言い始める。最初は居心地が悪い。相手も少し驚くかもしれない。

しかしこれが二回、三回と繰り返されるうちに、何かが変わり始めることがある。相手も「じゃあ自分はこっちがいい」と言い始める。「交互にしよう」。十回目には、双方が希望を出し合うことが普通になっている。ここで起きているのは、一回の試みの成功ではなく、繰り返しの中で関係のあり方そのものが少しずつ変わっていくプロセスだ。もちろん、変わらない場合もある。それもまた情報であり、次の判断の材料になる。

これらの場面に共通しているのは、結果が保証されていないということだ。そして、結果が保証されていないにもかかわらず自分の判断で動くこと、その結果を情報として受け取り次の判断に活かすこと——このプロセスそのものが、自己決定の回路を動かし続ける。

なお、権力差が極端に大きい関係や、相手に対話の意思がまったくない状況では、こうした試みは有効でないだけでなく危険になりうる。そのような状況を自分の判断で読み取り、無理に動くよりも安全を確保することを選ぶのも、自己決定の一つの形だ。

選択肢が見えているということ

この記事は特定の行動を推奨していない。推奨できないと言う方が正確だ。何を大事にし何を手放すかは、外部から指定できるものではないからだ。

この記事にできるのは、「考え方を変える」以外にも選択肢があるという認識を手渡すことだけだ。内面を整えることを選ぶにせよ、環境に働きかけることを選ぶにせよ、今は動かないと決めるにせよ、それが自分の判断であるかどうかが重要だ。選択肢が見えた上で選ぶのと、他に道がない中で選ぶのでは、同じ行動でも意味が異なる。

偏りは不可避であり、他者の判断は制御できない。この二つの不可避を引き受けることは、困難を解消することではない。困難の中で、自分の判断を自分のものとして持ち続けるということだ。

冒頭の違和感に戻ろう。「それは認知の歪みだ」と言われたときの引っかかり。あの違和感は、もしかしたら、自分の判断が外部から上書きされることへの抵抗だったのかもしれない。

自分の見え方を「間違っている」と言われることへの抵抗と自分の偏りを自分で引き受けたいという自己決定への素朴な欲求。それは、人が自分の生を自分のものとして生きるための出発点なのだろう。